政府派遣①『硫黄島』
硫黄島はマリアナ諸島と日本本土のちょうど中間に位置した島で、この地理的要因からマリアナ諸島の陥落後日本にとっては本土防衛上極めて重要な島でした。日米双方苛烈を極めた硫黄島の戦いでは約21,900名の日本人が戦死しました。現在、硫黄島での遺骨収集派遣は2週間程度の日程で行われます。硫黄島には未だに約1
硫黄島はマリアナ諸島と日本本土のちょうど中間に位置した島で、この地理的要因からマリアナ諸島の陥落後日本にとっては本土防衛上極めて重要な島でした。日米双方苛烈を極めた硫黄島の戦いでは約21,900名の日本人が戦死しました。現在、硫黄島での遺骨収集派遣は2週間程度の日程で行われます。硫黄島には未だに約1
パラオ諸島ペリリュー島は、昭和42(1967)年に設立され、当法人の前身である「学生慰霊団」による第1次派遣の慰霊巡拝が行われた地でもあります。ペリリュー島では、中川州男大佐を中心に、約10,000名が守備にあたっておりました。中川大佐は島中心部の山岳地帯の洞窟を利用した要塞を構築し、長期持久戦
ニューギニア島は、日本から真南に5,000キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯の島です。太平洋戦争中は、日本軍と連合軍の間で何度も激しい戦闘が繰り広げられましたが、日本軍の戦況が悪化し補給路が絶たれると、取り残された日本兵の多くは、熱帯雨林の過酷な環境の中、マラリア・アメーバ赤痢・デング熱・腸チ
7,000以上の島々からなるフィリピン。先の大戦時には海陸で激しい戦闘が繰り広げられ、約520,000人の日本人が戦死しました。これは日本人海外戦没者数(沖縄・硫黄島も含む)を地域別に見たとき、最も多い人数です。これまで当法人では、昭和の時代からご遺骨の送還に携わってきましたが、依然として約370,
第二次世界大戦の終戦後、武装解除を投降した日本軍捕虜らはソビエト連邦によってシベリアへと労働力として移送隔離され、強制労働を強いられました。厚生労働省の調べによると、このシベリア抑留では、約55,000人もの尊い命が失われたと言われています。(これまで当法人が送還に携わったご遺骨の柱数:8,12
昭和14(1939)年に満州・モンゴルの国境付近で勃発したソ連軍と日本軍による軍事衝突、通称ノモンハン事件。一連の軍事衝突により、戦没者は8,000名ちかくにものぼりました。近年でもこれら地域での遺骨収集派遣が何度か実施されております。(これまで当法人が送還に携わったご遺骨の柱数:1,739柱)
ビスマーク諸島とは、ニューギニア島の北東沖にある島群であり、ラバウルのあるニューブリテン島やブーゲンビル島が有名です。軍歌にもなったラバウル海軍航空隊をはじめ、日本軍の基地が多く存在し、水木しげる氏が従軍していた地としても知られています。長くニューギニア・ソロモン方面の前線であり、連合軍の空襲や上陸
昭和19(1944)年7月24日、米軍はテニアン島に上陸を開始しました。テニアン島には、第一次大戦以降の南洋群島政策により多くの日本人移民が移住し、沖縄線同様に彼らの多くが戦火に巻き込まれました。松本歩兵50連隊や海軍56警備隊を主力とする日本軍は現地の日本人移民の民間人義勇隊を編成しましたが、米軍